お子さんのユニークな才能を伸ばしましょう!!

こんにちは!
ワウワク塾 塾長の福田歩です。

前回は
『「○点以上取りなさい」と言ってはいけない』
と題して、
子供の健全な心の発達の面から、
子供を数値目標で評価したり、
賞罰を与えることの愚を説きました。

ついついやってしまう親御さんも多いことと思います。

そして、高校合格とか、大学進学のためには
テストの点数や学年順位などの数値目標を
設定する必要があると信じてらっしゃる
親御さんも多いことと思います。

そんな親御さんには、是非、
昭和の頃に身につけた常識ではなく、
お子さんが社会に出る10年後や、それ以降の
世界のことを考えていただきたい
と思います。

それを考える上で重要なポイントが3つあります。

① 日本の人口動態

② AIの進歩

③ パーソナルな教育を!

① 日本の人口動態から考える

まずは、総務省のHPに載っている
日本の人口動態のグラフに加筆した
下の図をご覧ください。

私たちは今、急激な人口減少の日本を生きています。

もちろん、あなたのお子さんが
これから生きていく社会も
(海外に生活基盤を移さない前提であれば)
急激な人口減少期の真っ只中です。

逆に、親の世代が経験した昭和は
急激な人口増加期でした。
そして、学校教育や受験のシステムは
残念ながら昭和の頃と本質的に変わっていません。

そこで問題は、
時代の変化に対応できていない『受験』のために、
昭和型の価値観でお子さんの教育を考えるのか?
それとも、10年先にはお子さんが必ず直面する
令和日本や、国際標準を考えて教育するのか?
ということになります。

この問題は、当塾で以前
親御さん向け脳力授業を開催した際に
話し合いましたが、
以下に重要な部分を再掲します。

人口増加していた時代(昭和)、
ヒット商品があればそれを真似ることが
正しい戦略でした。

人口が増えるわけですから、
作れば作っただけモノが売れました。

ひと(他者・他社)と同じモノの大量生産こそ是でした。

この時代の正しい生き残り戦略は
「人と同じであること」
「普通であること」
「前例踏襲」
でした。

社会がそのような人材を求めるので、
そのような人を育てる教育が行われました。

つまり、学校では
「言われたことを言われた通りにこなす能力」
「言うことの聞き方」
を教えました。

国語・数学・英語・理科・社会で
教えられた範囲のテストを
教えられた通りに回答すると評価される教育って、
まさに
「言われたことを言われた通りにこなす能力」
を訓練しています。

多くの大人が持つ学習塾のイメージも
そうした能力の訓練所ではありませんか?

人口減少期に突入した令和の今、

ひと(他者・他社)の真似をして
モノを大量に作ったらどうなるか?

作れば作るほど余るんです!

誰でも真似できる商品が溢れたら、
安いものが選ばれます。

安値を競ったら体力の削り合いです。
体力のない順に倒れていくだけです。

ですから、「人と同じであること」「普通であること」「前例踏襲」は
無価値というより、害悪に近いかもしれません。

昭和の教育では、
「正解」が用意された問いが与えられ、
正しく答えを出すことが「是」でした。
間違うことや失敗することを恐れる子が育ちました。
失敗した人を許さない社会になりました。
そしてチャレンジしない社会になりました。

ですが、今では「正解」がわかっている問題の学習は、
人間よりもAIの方が遥かに速く、大量に、正確にこなせます。

“言われたことを言われた通りにこなす” タイプの仕事は、
人口(労働力)が激減するこれからの日本では
確実にAIに置き換わっていくでしょう。

つまり、昭和型教育のDead End(行き止まり)です。

これからの時代は
誰も人口減少期の正解がわかりません。

正解のない問いを創り出し、
その答えを考えることは
人間にしかできません。

現実と向き合い、
「何が問題なのか?」を自分で考え、
行動(トライアル&エラー)によって
独創的な答えを導き出せる人が求められます。

当然のことながら、一発でうまくいくわけがありません。

何度も失敗します。

成功するまで失敗し続けられる人
失敗から学べる人が活躍します。

これからの時代に必要な教育は、
失敗を「是」とする教育です。

人と違うことを「是」とする教育です。

② AIの進歩

①の人口動態の話だけでも
テストの点や順位といった数値目標を
有難がる教育観に意味がない時代になっている
ことは明白なのですが、
さらに追い討ちをかけるように、
ChatGPTなどの生成AIが出てきました。

数学者でAI研究者の新井紀子教授らの
『AIは東大に合格できるか』というプロジェクトによると、
今から10年前の2013年の時点で既に
AIはMARCH(明治・青学・立教・中央・法政)
合格できていました。

現状行われている学力試験のスコアで
測ることのできる類の優秀さ、
つまり正解のある問いに答えられる優秀さでは、
人間はAIに勝てない時代になってしまいました。

ポジティブに捉えるならば、
正解がわかっている定型的な作業から
人間が解放される時代が来たということです。

実際の仕事の現場では、ずいぶん前から
計算機やインターネットなど利用できる道具は活用してきました。
そこに、これからは生成AIという道具が加わります。
そして、個人の優秀さで解決できない問題は
多種多様な個性が集まったチームで解決すれば良いのです。

なのになぜ、未だに
ペーパーテストでは定型的な知識(AIが得意)を
大量に覚えることを前提として、
周りの人と協力せず、個人独力の優秀さだけを
測ろうとするのでしょうか?

昭和生まれの親御さんの世代に
もっとわかりやすい比喩を使うなら、
「パソコンの時代にソロバンの技能を
 子供たち皆に一律に競わせる」

みたいな状況に疑問を感じませんか?

先日、東京大学で
ChatGPTを裁判官とした模擬裁判(実験)が行われました。

AI裁判官に「有罪」と言われたら、
果たして人は、その判決を受け入れられるでしょうか?

六法全書や過去の判例を基に
妥当な量刑を判断する能力は
AIはプロの裁判官と遜色ないレベルです。

これからの時代、人間が猛勉強して司法試験に合格する必要があるでしょうか?

それよりも、これからの法曹により求められる能力は、
人と関わる能力
いわゆる人間臭さではないでしょうか?

学力試験という
スタンドアローンな状況下での個の優秀さよりも、
他人と繋がる能力、
人と一緒に何かを成し遂げる能力、
人から喜ばれることを幸せに感じる能力など、
数値化できず、プログラムできない能力こそが
評価されるべき時代ではないでしょうか?

学校教育の主目的をその点に移すべき時代なのではないでしょうか?

親御さんは、お子さんのテストの成績よりも、
「人と関わる能力」、
「何かに夢中になる能力」、
「失敗しても諦めず、最後には成し遂げる能力」
など、AIには真似できない人間臭さを

もっと見つけて、伸ばしてあげてください。

③ パーソナルな教育を!

①、②を踏まえて、今の教育に
大きな危機感を感じています。

それは、不登校の子がとても増えていることです。
私の生徒たちから聞く話では、
どこの学校も、だいたい
10%ほどの子が不登校のようです。

そして、私は
必ずしも不登校は悪くないと思っています。

問題なのは、既に崩壊した教育システムを
誰も見直そうとしないことであり、
むしろ不登校の子は
警鐘を鳴らしてくれているのだと思います。

令和元年の文科省資料より

大まかに括ってしまうと、
ほとんどの学校は、
(特に地域の公立の学校は)
昭和から続く「みんな一緒」の価値観の教育をしています。

つまり、工業製品に「規格」があるように、
子供達にも学習指導要領で定める
一律の基準を身につけさせることを是としています。

一人の教師が30人ほどの生徒を担任し、
授業は30人に同じ内容を教えます。

その結果、「パーソナル」という観点からすると
誰にも焦点が当たっていない授業をすることになります。

その子の個性や、身体的、精神的状況に関わらず、
同じ基準の授業、
同じ基準の宿題、
同じ基準の出席日数などで
平等に評価します。

個人を良く観てみると、
とても大きなポテンシャルを
持っている子であっても、
この “一律の基準" に合わせられない子は

「授業に出席していないから、
 提出物を出していないから、

 テストの点が良かったとしても
 “1” 以外の評定はつけられない。」

となり、

「あなたの希望の高校は無理です」
「推薦状は書けません」

などと、未来の希望を打ち砕けれます。

あるいは、学ぶことは好きだけど
今のクラスに通うのは精神的に苦痛で、
でも行きたい高校に合格するためには
出席日数を確保しなければならないからと、
我慢して通学している子もいます。

「不登校」の数字に含まれなくても
“一律の基準" を我慢している子がいます。

もし教育が工業製品のように
一律の「規格」に当てはまる子を
育てることを目的とするのだとしたら、
(昭和の教育はそれで時代にフィットしていました)
10個に1個の製品が規格から外れる
生産システムは崩壊していると言えます。

そして、この一律の規格に当てはまる優秀さは、
① 日本の人口動態からも、
② AIの発達からも、
これからの時代では役に立たないことは前述の通りです。

そもそも、
子供を何かの基準(規格)で評価する必要があるのでしょうか?

テストの点数や、学年順位や、偏差値や、評定といった
何某かのデータ処理による
数値で評価しなければならないのは、
一人の人間としてのその子に向き合うことを
放棄しているからではないでしょうか?

誰も答えのわからない問いを考えるとき、
皆同じ基準の優秀な人が何人集まっても
意味がありません。

ユニークな視点の「バラバラな才能」がチームに必要です。

規格に当てはまらない個性が必要な時代です。

ですから、教育も「みな一律」「みな平等」から、
もっと一人ひとりの個性にフォーカスした
パーソナルなものになる必要があると思います。

人間臭さこそが人間の武器になる時代に、
AIで代替可能な数値化できる能力で
子供を評価する教育に意味はありますか?

たとえ目先の高校や大学の入試に必要だとしても、
社会に出てから使えないとわかっている能力を
子供たちに身につけさせますか?

私は日々、生徒たちや親御さん方と接しています。

子供たちは一人ひとり違う個性を持っています。

違う興味、違う才能を持っています。

成長の段階も、方向も
皆バラバラです。

バラバラであることが、特にこれからの時代は大切なのです!!

その観点から考えると、
今の “一律の基準” の教育に合わせられる約9割の子は、
時代に合わない教育に疑問を持つ必要がないという点で、
実はヤバイのではなかろうか?
__と思うのです。

そして、何らかの理由で学校に合わない子と
その親御さんの相談に向き合っていると、

彼ら彼女らの目は
「自分にとって、我が子にとって何が最良なのか」
に向いています。

不登校の子の方が、
実は正解に近いところにいるのではないでしょうか?