進学校で勉強について行けない......(3)
こんにちは。
ワクワク塾 塾長の福田歩です。
県内トップレベルの進学校に通うOBのお母様から、
表題のようなご相談をいただきました。
“とにかく課題(宿題)をたくさん出す高校で、
睡眠時間を削っても課題が山積する。
塾(予備校)にも通っているが、勉強についていけない。
入学前から楽しみにしていた部活に、最近は顔を出していない。
以前から好きだった趣味も最近はしていない。”
要点は3つです。
1. 課題の分離(親も子も)
2. 「助けて」と言える人になろう
3. 挫折や失敗も大事な人生経験
(1)『課題の分離』、
(2)『「助けて」と言える人になろう』と、
それぞれ書いてきました。
今日はその続き
『3. 挫折や失敗も大事な人生経験』について、
私の個人的な経験に触れて書きます。
3. 挫折や失敗も大事な人生経験
このOBの生徒は、(2)でも書いたようにとても優秀です。
優秀であるが故に、優秀であることが当たり前の環境を選びました。
もしかしたら、今、初めて
どんなに頑張っても周りと比べて優秀でいられない経験をしているのかもしれません。
「今まで通用したやり方が通用しない」
という壁に出会ったのかもしれません。
壁にぶつかることは良いことです。
今までとは違うステージに挑戦している証なのですから。
その道を先に進むためには、
・同じやり方で、さらに能力を高めること(今これができないで苦しい)
・別のやり方を獲得するチャンス
・自分の考え方を変える必要があるのかも?
ただし、その道以外の
別の道を試しても良いのです。
ですが、こういう正論は
今の彼には響かないかもしれません。
今見えているのが唯一の世界で、どうしてもうまくいかず苦しい。
まるで深海の底のような、
出口の見えないトンネルの中にいるような、
そんな心情だと思います。
(2)でも書いたように、世の中には
苦しいときに助かろうとする人と、助かろうとしない人がいます。
その違いは、
根っこの部分で輝かしい自分を信じているかどうか
なのだと思います。
どうか輝かしい自分を信じてください。
日の当たる場所が自分本来の居場所だと信じてください。
そうすれば、必ず長いトンネルから出られます。
トンネルから出てしまえば、辛い経験も良い経験です。
笑いのネタです。
トンネルからの生還者は強い人です。
他人に対して優しくなれる素敵な人です。
だから、今の辛い状況も人生の中の欠かせない
良い経験として大いに味わってください。
応援してます。
(1)、(2)、(3)と書いてきたこと、悩んでいる親子に届いてほしいです。
今の悩みは必ず人生の良い経験になります。
私自身がそうだったから、私の経験をシェアします。
下の写真は私の上下の顎(あご)の写真です。
歯を食いしばり続けた結果、顎の骨が太く変形しています。
骨隆起(こつりゅうき) といいます。
知り合いの歯医者さんから、
「うちの歯科医院始まって以来、いちばん頑張ってる人です。」
と認定されました。
私も、自分の限界を超えて頑張りました。
長いトンネルをいくつも抜けてきました。
その経験があったからこそ、
今、周りの人を癒し、育てることができています。
私の両親は、4歳のときに終戦を迎えました。
父は長男で、兄妹が多く、家計を支えるために
中学時代も家業を手伝い、高校に進学せずに働きました。
父は勉強をしたくてもできなかった経験から
自分の子供には十分な教育を与えたいという気持ちの強い人でした。
兄と私にさまざまな習い事をさせました。
スイミング、エレクトーン、ピアノ、習字、そろばん、学習塾
父は特に兄の音楽教育に熱心で、
はっきり言って常軌を逸していましたが、
とにかく兄は父に従順でした。
私は小さな頃から生き物に興味があり、自然の中で遊ぶことが好きでした。
(この頃から生き物の研究者になりたかった)
ですが、エレクトーンやピアノに全く興味がなく、
毎週金曜日のレッスンが苦痛でした。
水曜日の夜中に汗をかいて起きて
「きょう何曜日?」
と親に訊くくらい嫌でした。
「そんなに嫌ならやめていいよ」と言われ、
私は自然の中で生き物と遊ぶ自由を得ました。
結局私はすべての習い事を途中で投げ出しました。
どれも苦痛だったのです。
どれも興味がなかったのです。
そして、今にして思えば
勉強や楽器の演奏は、父がやりたくてもできなかったことであり、
私がしたいことではなかったのです。
((1)、(2)で書いた『課題の分離』)
母に言われました。
「歩は何をやらせても最後までやったためしがない。」
小学生の私にとって、母のこの一言は「人格の否定」でした。
これが私にとって呪いの言葉になりました。
『一度始めたことは最後までやらなくてはならない』
という価値観が私に植え付けられました。
高校のバレーボール部は、顧問が毎日のように部員をビンタする指導(?)をしました。
いつも怯えていました。
ミスすることを恐れました。
バレーボールが楽しいなんて、一度も思いませんでした。
他の部員はどんどん退部していきましたが、私は辞めようとしませんでした。
3年間、恐怖に耐え続けました。
大学院では助手(助教)からアカデミックハラスメントを受けました。
やがて鬱になり、大学に通うことが困難になりましたが、
今のように「ハラスメント」という概念がなかった時代なので、
誰に相談したら良いかわかりませんでした。
祖父の介護を理由に1年間の休学を申請して、助手から距離をとりました。
それでも研究者になりたいという子供の頃からの夢を、
あんな理不尽な助手のせいで諦めたくなくて、
深夜に教授室から図書館の鍵を借りて、論文をコピーして
休学中も勉強を続けていました。
あるとき、朝の5時に鍵を返しに研究室に戻ると、
たまたま助教授(准教授)が来ていて、
「福田が悪いんじゃないって皆んなわかってるから。」
「福田が一言、俺のチームに移りたいって言ってくれたら、あとは絶対に誰にも文句言わせねぇから!」
と誘ってくれました。
助教授のチームに移り、2年で博士論文を書くことができました。
辛い思い出が多かった大学院も、途中で辞めずに修了しました。
製薬会社に就職して
最初は私の博士としての専門性が必要なプロジェクトにアサインされ
「好きな研究をして、お給料まで出るなんて天国!!」
と思っていましたが、3、4年ごとの部署異動で
仕事の内容が変わります。
気がついたら、全く興味のない仕事に忙殺されて鬱になっていました。
看護師で日々いろんな患者さんに接している妻が、
日に日に弱っていく私をみて
「このまま働いていたら死んじゃうと思う。」
「仕事辞めたら?」
と言ってくれて、はじめて
『仕事を辞める』という選択肢があることに気付きました。
「途中でやめていいんだ」
42歳にして、小学生の頃にかかった呪いが解けました。
そういえば、子供の頃から興味のないことに耐えられない子だったんだ!!
退職後に整体の師匠に出会い、心身を癒す技術を身につけました。
また、師匠から
「福ちゃんは教えるの好きなんだから、塾もやったらいいのに」
と言われて、ワクワク塾を始めて今に至ります。
今は、「整体」と「塾」という一見異なる仕事をしていますが、
私にとってはどちらも本質的に同じ仕事です。
どちらも人を癒し、未来へ向けて育む仕事です。
どちらも “傷ついたことがあり、それを乗り越えた人” にしかできない仕事だと思います。
今回は “長いトンネルの話” について書いてきました。
高校時代の部活、大学院時代のアカハラなど、単発のトンネルは
「卒業」などのゴングに救われて終わります。
しかし、“一度始めたことは途中でやめてはいけない”
という親からもらった固定観念に気づくまで、
同様のトンネルは人生に繰り返し訪れました。
私は約30年かけて、やっと自分の価値観を手に入れました。
私はもう歯を食いしばって耐えません。
私は興味のあることを学びますが、興味がなくなったら止めます。
私は自らの意思で行動します。
私が自分の人生を生きる権利を侵害する人のいいなりにはなりません。
わざわざ近寄りません。
会社でたくさんの経験をさせてもらえましたが、自分の意思で仕事は選べません。
だから私は自分の意思でコントロールが効く個人事業主という働き方を選びます。
個人だから会社のように大きなことはできません。
私が責任を持てるのは、私自身が幸せであること。
私が幸せにできるのは、私の手が直接届く範囲の、ご縁があった人だけ。
それでも、塾でも整体でも
「この人1人の役に立てただけでも、この仕事をした甲斐があった」
と思える人が現れます。
私はそれが幸せです。
最後にOBの生徒へ
私の真似なんかしないように!
あなたはあなたの人生を生きてください。
まだ1回目か2回目のトンネルでしょ?
じっくり味わって、自分のやり方を見つけてください。
他人の “借り物の価値観” は早めに捨てた方がいいかもね?
そしてOBのお母様へ
私は父からは “父自身の願望” を背負わされました。
母からは “途中でやめてはいけない” という価値観を刷り込まれました。
これは呪いであったと同時に、
骨が変形するほど、自分の限界を超えて頑張るという経験を私にもたらしました。
のほほんと生きていたら得られなかったたくさんの経験を私にもたらしました。
だから、かけがえのない贈り物でもあるのです。
つまずいたからこそ、大切なものがわかったのです。
祝福と呪い、最終的にどちらを受け取るかはお子さん次第なのだと思います。
見守りましょう。